がんばるのは今じゃない

父がまさかの認知症。

最初の検査

もの忘れ的な症状は、もっと前から始まっていたのだと思う。

だけど、八十歳を過ぎ、会社に行くわけでも、責任のあることを任されているわけでもない父と、亭主関白な夫にずっと仕えてきた闘病中の母にとって、少しくらいやりとりにとんちんかんなことがあっても、不都合などなかったのだろう。

 

「年のせい」「機嫌が悪い」「病気で迷惑をかけている」

 

そんな言葉で、なかったことにできるくらいの小さなほころびが、気づいたときには修復できないくらい大きな穴になっていたとしても、母を責めることはできない。

4月に転勤したばかりで、新しい仕事に追われていた私は残業が続いていて、母からの電話は、ただうっとおしく、夫婦げんかの話など娘にしないでほしいと思っていたのだ。

 

「これはおかしい」と思ったのは、母が骨髄の病気であることを、どうやら父が忘れているとしか思えない言動が増えてきたからだった。

母は抗癌剤の投与のために、二か月に一度、入院するのだが、母の不在イコール不倫という妄想に父は支配されているようなのだ。

しかも、不倫の相手は、近所の電気店のご主人で、そのことを執拗に責めるのだという。

驚いた母が否定すると、卑猥かつ執拗な言葉で母を傷つけ、最後は手が出る。

また、通帳がない、財布がない、鍵がない、書類がない、など、夜中に起きだして騒ぎだし、母が隠したの一点張りで、朝まで母に探させる。

父と母しかいない家で、盗った盗られるなどありえないのに、父は、どういう衝動にかられているのか、あらゆるものを隠そうとし、隠した場所を忘れて、騒ぎ出すのだという。

または、「みんながわしをバカにする」と、卑屈になり、いきなり「離婚しよう」とか「田舎に帰る」などと言いはじめることの繰り返しなのだそうだ。

しかし、嵐が去ると、父は全てを忘れていて、母に媚びを売る。甘える。ふれてほしいとねだる。小学生の子どものような退行。

 

ドメスティックバイオレンス? 認知症?)

 

どうやら、父に何かが起こっていることはわかったが、精神の病気なのか、認知症なのか、よくわからない。

母から父の異変を聞いた千葉に住む妹からも、心配してメールが届く。

実家に様子を見に行くが、私や孫たちの前では、いつもどおりの父なので、母が言うような事態が起きていることが信じられない。

そもそも、これは本当のことなのか?

 

(もしかしてボケているのは、母?)

 

母が認知症なのか?

 

妹と私から、認知症の疑いをかけられた母が取った行動は、父が錯乱しているときのやりとりを実況中継するというものだった。

夜中にいきなり電話がかかってきて、受話器を耳にあてると、母の金切り声と父の怒号が聴こえてくる。

通話状態のまま、放置された子機が、父と母のやりとりを拾いつづける。

耳をふさぎたいような罵倒。ヤクザ映画に出てくるちんぴらのような言葉づかい。どうしたらそんな言葉を思いつくのかと驚くほどの卑猥で陰湿な言葉を、執拗に繰り返しているのは、確かに父の声だが、これまでに聞いたことのないトーンで、何か別の人格、または邪悪なものが憑依したかのように不穏なのに、下手な役者が演じる陳腐な再現ドラマのように現実味がなかった。

これは父ではない! と叫ぶと同時に、父だ、と醒めている部分もあった。

 

湧いてきたのは猛烈な怒りだ。

父を支配している邪悪なものに対して。

母にそんなことをしている父に対して。

こんなものを娘に聞かせる母に対して。

 

とにかく、早急に父が認知症なのかどうかを診断してもらい、症状を止める薬を処方してもらわなければという決意が固まった。

 

どこで?

 

今考えると、不思議なのだが、父に対しては「認知症」という言葉を使ってはいけないという思い込みがあった。

「もの忘れ外来」などという名目では、病院に連れていけないような気がしてしまったのだ。

そこで、以前に父がMRI検査をした脳外科であれば、抵抗が薄いと考えた。

もう一度MRI検査をしてもらい、一年前の脳の状態と比較してもらうことで、認知症の進行がわかるのではないかと思ったのだ。

 

父を連れ出し、脳外科を受診したのが、平成29年6月3日。

 

MRI検査の結果が出て、診察室に呼ばれ、先生から聴いた言葉は、

「一年前と、変わってませんね」

 

それだけだった。

 

(え)

 

先生の口からは、「認知症」という言葉も、薬の処方も出てこない。

 

(このまま帰れって?)

 

いやいやいや。このままでは帰れない。

もう診察は終わりとばかりに背を向けかけた先生に、必死で父の状況を話し、認知症ではないかという思いで来たということを伝えた。

そこで初めて、「では、検査をしましょう」ということになり、すぐに長谷川式の検査が始まった。先生の机には、検査のシートが常備されていたのだ。

いくつかの質問に答えていく父。

ふざけているのか、本当にわからないのか、ニコニコしながら間違えた答えを即答する父は、ちゃらけた小学生みたいだった。

少し前まで、畑を借りて野菜を作っていたので、野菜の名前は楽勝だろうと思ったら、4つほどしか言えない姿を目の当たりにして、初めて絶望的な気持ちになった。

結果は16点だった。

 

予備知識がなかった私は、16点がどういう数字なのかわからない。

 

「30点満点で、20点以下が認知症の疑いがあると言われています。進行を遅らせることができると言われているお薬がありますので、飲んでみますか?」

「はい!」

 

20点がラインで、16点しかないというのは、かなりショックな数字だった。

それよりも、最初に言われた「一年前と変わっていない」という先生の言葉がひっかかる。

 

では、一年前から父は認知症だったのか?

なぜ、教えてくれなかったのか?

思わず、先生に詰め寄ると、

 

「画像から認知症であるかどうかという診断はできません。脳が萎縮していても、認知症の症状が出ていない人もいるし、萎縮がなくても、認知症の症状が出ている人もいます。ご本人から申し出がなければ、こちらから認知症の薬を出したりすることはありません」

 

と、淡々と言われた。正論だ。

 

認知症の進行を止めるという薬は、ドネペジルというものだった。様子を見るために半量の5㎎を二週間続け、副作用などがなければ、通常の量にするという。

市に問い合わせて、介護認定の申請をして、いろいろなサービスを受ける手続きをするようにと言われた。

 

やはり……という思いと、16点という少ない点数が、ぐるぐるまわる。

その日から、薬を飲んで様子を見ることになった。

父は、私に対しては、暴言も暴力もなく、おとなしいものである。

抵抗もなく、診察を受けてくれた。

ただ、イコカのケースを入れた場所をすぐに忘れ、電車の乗り換えのたびにカバンをひっくりかえす大騒ぎになることに驚いた。いったいいつから、父は、こんなふうだったのだろう?

何度も、「どこへしまったかな」と私に確認する。いったん入れても、不安なのか何度も出し入れするので、父がどこに入れるか見ていないと、私にも探せなくなる。

 

父が認知症だとわかった日。

脳外科を出たところに、小さなアジサイ園があり、花がつきはじめていた。

私は認知症のことを何も知らなかった。

薬を飲めば、父の異常行動は軽減し、平和な日々が戻ると思っていた。

 

 

〈みみ〉