がんばるのは今じゃない

父がまさかの認知症。

実家に単身赴任

 

夫と二人の子どもたちと離れ、実家でお雑煮を作り、両親と食べる元旦。

マンションで、朝の光が差し込む南東向きのリビングで迎えるお正月と違い、築四十年の日本家屋の北側の台所は暗くて寒い。

81歳の父と78歳の母に年越しそばを作り、紅白歌合戦を見ながら、一緒に食べ、朝がくると、あたたかいお雑煮を作って、「あけましておめでとう」と挨拶するなんて、父が認知症にならなければ実現しなかった。

ほかの病気であれば、病床に付き添うことしかできなくなってから介護が始まる。こんなふうに、会話もでき、おいしいものをおいしいと言って食べてくれるうちに、親孝行ができる状況は、神様がくれたプレゼントなのかもしれないと、思うこともある。

 

父が認知症だとはっきりわかったのは、平成29年の6月だ。

後から思えば、「このときにこうしていれば」「このときに気づいていれば」「あれは、そういう意味だったのか」と、思い当たる節目が、たくさんある。

でも、無知だった。

認知症」イコール「どなたさんですか?」と、配偶者や子供のことも忘れてしまうというイメージしか持っていなかった。

 

「どなたさんですか?」の状態になるまでには、長い長い道のりがあり、それよりも困った状況がたくさんあるということを知らなかった。

いちばんショックだったのは、はっきり「認知症」だとわかってから、薬を飲んでも、もう遅いということだった。

発症するまでの潜伏期間が、十年とも二十年とも言われているなんて、デイサービスの相談員さんから聞くまで、知らなかった。

脳が「萎縮する」ということは知っていたが、「血流が悪くなる」ということも同義だったなんて、本を読むまで知らなかった。

しかも、本人からの申し出がなければ、病院の先生は「認知症かもしれないので、詳しい検査を」などとは、絶対に言わないものだということも。

 

(言ってくれよーーーーーっ)

 

父の場合は、高血圧の持病があり、ずっと近所の内科にかかっていたが、頭痛やふらつきを訴えたため、脳外科を紹介してもらい、MRI検査を受けた。それが、平成28年の5月だった。

このころ、すでに父の言動でおかしなことがあり、「それは認知症では?」と疑いを持っていた私は、MRIの画像から、認知症かどうか判断でき、何かあれば伝えてもらえるはずだと楽観していた。

検査の結果は、脳梗塞や腫瘍などはなく、「血流が悪いところがある」という所見で、認知症のことは何も言われなかったと母から聞き、安心してしまった。

同じころ、免許の更新前の高齢者講習と認知機能検査があり、父は合格と聞き、さらに安心してしまった。

不安の先送りだ。

このころ、父は既に認知症を発症していたのだと思う。

80歳を越えたら、どんな病気であっても付き添い、医師の話を聞き、必要があれば、疑問や質問を投げかけなければならなかった。

ましてや、認知症を疑う言動があったのだから、医師に状況を話し、この時点で認知症の検査をしなければいけなかった。

運転免許の更新前の認知機能検査も、合格したことを聞いて安心するのではなく、検査結果通知書で内容を確認しなければいけなかった。

一年後、介護のために同居するようになってから、ぐうぜん見つけた通知は、愕然とするものだった。

 

まず、認知機能検査結果は、69点で、「記憶力・判断力が少し低くなっています」という判定だった。76点以上なら、「記憶力・判断力に心配ありません」ということなので、合格したから安心というレベルではなかった。

しかも、教習所で行う認知機能検査は、認知症の診断を行うものではないので、「49点未満だったとしても、直ちに認知症であることを示すものではなく、49点以上でも必ずしも認知症でないことを示すものではない」と書かれている。

さらに、「記憶力・判断力が低くなっている」とされても、運転免許証の更新をすることはできるし、直ちに運転免許が取り消されるわけではない」と書いてある。

 

(えええっ 危ないやんーーーっ!!)

 

どういうときに取り消されるかというと、49点以下の人が、一定の期間に、交通違反をした場合、公安委員会から連絡があり、専門医の診断を受け、認知症と診断された場合だそうだ。

 

(待って待って)

 

ということは、更新前講習に合格し、運転免許の更新ができたことは、父が「認知症ではない」ことを、なんら証明していないということだ。

 

(知らなかった)

 

後の祭りのことだらけ。

両親が75歳を超えたら、いくら元気であっても、こまめに様子を見に行き、病院には必ず付き添わなければだめだった。

 

しかし、父は、以前からとぼけたことを言う人だったし、気性も激しく、短気で、人の言うことをきかなかったので、認知症なのか性格なのか、母も私も、判断がつかなかった。

特に、孫が生まれてからは、かつてのキレやすく、自己中心的な性格が変わり、気長に待つことも、人とのコミュニケーションもとれるようになっていたので、内心、驚いていた。この性格の変化こそが脳内の変化の発端だとしたら、皮肉なことだと思う。

いったい、父の脳は、いつから変わり始めていたのだろう。

 

認知症を発症し、薬を飲みだしてからの父しか見ていないので、父が自分の脳で起きていることに気づいたころ、どんな葛藤があり、どう対処していこうとしたのか、伺うことができない。

古い手帳を何冊も持っていて、今もデイサービスに持っていくカバンの中に入れているので、大切なことは書き留めておこうとしていたのかもしれない。

 

母は、六年前に骨髄異形成症候群という血液の病気になった。

高齢で、骨髄移植はできず、薬の効果も二~三年。五年以上の生存率は少ないと聞かされていた。

父が母の介護をし、看取るはずだったのだ。

父は、定年後、ホームヘルパー2級の講習を受けている。シルバー人材センターで幾つかの仕事をしたあと、デイサービスの送迎の仕事を紹介され、認知症サポーターの講習も受けていた。

だから、今も、デイサービスは職場だと思っている。

利用者を見守る仕事だと、私に報告してくれる。

 

父は、母が病気であること、弱っていくことが受け入れられなくて、現実を見たくなくて、認知症に逃避したのだと思う。

 

私も、老いて弱っていく両親の姿から逃避していたと思う。

常勤で仕事をしているし、高校3年生の長男と、中学3年生の長女と離れて、利便性のよい快適なマンションから、不便で寒くて暗い、築四十年の実家に移り住むなんて、ありえないと思っていた。

 

ところが、母の緊急入院。

待ったなしだった。

父は一人では、鍵の管理も、財布の管理もできず、薬も飲めない。時間も曜日もわからない。

鉄拳を振るわれるって、こういうことなのだと思った。

あれこれ考えるまでもなく、それしかない状況がやってくる。

こうして、母が入院したその夜から、私ひとりが実家に移り住むことになり、認知症の父との生活が始まった。

平成29年8月28日。

 

〈みみ〉