がんばるのは今じゃない

父がまさかの認知症。

駆け込み寺

Uさんから紹介されたKさんを頼って、診療所に電話をかけた時、私は、診療所とデイサービスの事務所が別だということも、Kさんがどういう立場の人なのかもわかっていなかった。

ただ、父の困った行動を止める薬をもらいたいという一心だった。

 

診療所の受付で怪訝な顔をされ、別棟に案内されて、あたりを見回し、ピンク色の作業服を着て忙しそうに動き回る人たちの姿から、そこがデイケアセンターであることがわかった。

 

相談員のKさん。ケアマネージャーのMさん。看護師のIさんが、私の前に座り、それぞれから質問されるままに、父と母のことを話した。

ちょうど一週間前に、地域包括センターで介護認定申請書を記入し、その週のはじめに市役所に提出されているはずだということも。

 

とにかく、〈母の心身の休養のために、父と分離することが先決!〉ということになり、さっそく、「デイサービスのお試し利用」を受けることを薦められた。

診療所が併設されているので、お試し利用の時に、職員が様子を観察し、診療所で検査を受け、薬も処方できるとのこと。

 

(父をごまかして、病院に連れていかなくてもいい!)

(願ったりかなったり!)

 

介護サービスは、要介護度により料金が定められているため、区分が決定しないと、利用できない。ただし、申請日にさかのぼり適用されるので、7月3日(月)に提出しているならば、前倒しで利用することは可能だという。

ケアマネージャーのMさんから、「要介護1は出るはずだから、その範囲でデイサービスを利用してはどうか」と提案された。週2回から3回は利用できるということだった。

 

預かってもらえるなら、自費でも頼みたいくらいだ。父の意見も、母の意見も聞いていないが、父がデイサービスに行ってくれるなら、そのあいだ、母は安心して休息ができる。送迎してくれるから安心だ。食事の用意もしなくていい。

週2回から3回、ひとりになれる時間があれば、今よりずっと楽になる。

お試し利用は、週明けの7月10日(火)に決まった。

 

 (こんなに早く事が進むなんて)

 

本来は、介護認定の申請をし、訪問調査があり、介護度が決定すると、その区分に応じて、ケアマネージャーがつき、介護サービス利用計画を立てることになるのだが、思いもかけず、先行してデイサービスを利用できることになり、母を救出できた。

 まるで、駆け込み寺だと思った。

 

***

 

PTAの本部役員になり、引き継ぎを受けた時、なんという理不尽で時代錯誤な考えのもとになりたっている役割なのだろうと感じたことを覚えている。

 

時間と能力、社会性と社交性がありながら、主婦の活動の場が家庭しかなかったという時代には、同世代の保護者と交流ができ、学校や地域と連携を図りつつ、さまざまな創意工夫をこらして、子どもたちのために活動できるPTA役員は、やりがいがあり、誇らしく、達成感もあって、楽しかったことだろうと思う。

私の母も、いまだに私が小学生だったときに、いっしょに役員をしたという人と交流がある。専業主婦の母にとって、よほどその活動が楽しかったのだろうと思う。

 

ところが、今は多くの母親が働きはじめるようになった。インターネットも普及した。じっと家庭にこもって、時間と能力をもてあまし、鬱屈を抱えている人などいなくなった。学校や教職員に対する尊敬と信頼の気持ちも薄まっている。

仕事を休んで、学校の会議室に集まり、時給ももらえないのに、会報を作ったり、掃除をしたり、校区の見回りをしたり、行事の準備をしたりすることに、やりがいや歓びを感じる人は少なく、貧乏くじを引かされたという気持ちでいっぱいなのだ。

 

お金で役員から逃れられるなら、払ってもいいと考える人も、少なくないと思う。集めたお金で、時給を払うことにすれば、逆に立候補する人も出るのではないか? それでいいではないかと、思ったこともある。

 

でも、実際に役員をやってみると、さまざまな保護者がいることに気づかされた。てきぱきとかっこいい、リーダーシップのある人、女神さまみたいな人、かわいい人、おもしろい人、人徳のある人、ひたむきな人、自分が恥ずかしくなるほど、正義感あふれる、素晴らしい人とも出逢った。もちろんその逆も。

保護者同志の不倫など、びっくりするような情報もあり、目がテンになった。地域の地主さんたちの派閥の話も耳に入る。先生たちの噂話も耳に入る。PTA活動は、特殊なヒエラルキーが層を成していた。

 

やるからには、清濁併せ呑むつもりで本気で愉しまなければ、もったいない世界だったが、どうして私が、そのような特殊な本部役員をやることになり、メンバーと出逢うことになったのか、ずっと不思議だった。

五年以上も経った今になって、父の認知症のことで力になってもらえるご縁があるなんて、思いもしなかった。

 

始まるときは、どこにどうつながっていくのか、推し量ることができないのが、結ばれたご縁というもの。

大切にしなければ、と思う。

 

〈みみ〉

 

さしのべられる手

父の興奮や暴言、暴力などを止める薬を出してもらうために、どの病院に行けばいいのだろう。  

検索をすれば、幾つかの病院や診療所があがってくるが、実績や評判などは、まったくわからない。

 

認知症は、いろいろなことを記憶できなくなり、直近のことを忘れてしまう病気だと思っていた。物盗られ妄想や徘徊があることも知っていたが、こんなに凶暴化して人格が変わるとは知らなかった。どうしたらいいのかわからない。いざというとき、隔離してもらえる入院設備がある病院のほうが、よいのではないか? それは、精神科の領域になるのだろうか? どうやって父を連れていけばいいのだろう? 

 

「もの忘れ外来」も「神経科」も「精神科」も、父がショックを受けるような気がして、ためらわれた。

 

口コミが欲しい。

活きた情報が欲しい。

生の声が聴きたい。

 

少しでも適切に、良心的な治療を受けたい。

切実に思うが、近隣で、認知症の親を介護している知り合いなどいなかった。

 

インターネットで調べると、「認知症疾患医療センター」というものが都道府県・政令指定都市が指定する病院に設置していると書いてあった。

 

認知症における専門医療相談、鑑別診断、身体合併症、周辺症状の急性期対応、かかりつけ医との連携、家族への介護サービス情報の提供と相談への対応、医療情報の提供等の介護サービス等の連携を行う〉

ことができるのだという。

 

大阪府で指定されている病院の一覧を見ると、私や両親が居住する市に、設置されている病院があった。

なかなか予約は取れないだろうから、予約待ちのあいだに考えればいいと思い、とりあえず、電話をかけてみた。

対応してくれた職員は、病院の受付というよりは、ホテルマンのような物腰で、まるでディナーの予約を取るように、必要なことを聴き取ると、予約状況について伝えてくれた。

「物忘れ外来」は予約がつまっており、かなり先になるのだが、「精神科」でも同じ検査を受けることができ、こちらであれば、一か月以内に予約可能であると。

「物忘れ外来」も「精神科」も、病院に大きく名称が掲示されているにちがいなく、父にどう取りつくろえばいいのかわからなかったが、後から考えればよいことなので、仕事の予定がどうなっているかも確認できなかったが、直近の日で予約を取った。

平成29年7月26日(水)午前9時。ずっと先だ。

ほかにもっといい病院があれば、キャンセルすればよいのだ。

 

口コミが欲しい。

活きた情報が欲しい。

生の声が聴きたい。

 

母の知人で、最近、介護の仕事を始めたOさんと話す機会があった。Oさんは、他県に嫁いでいたが、離婚して実家に戻ったところ、母親が認知症を発症し、デイサービスに預けながら、自宅介護をしているとのことだった。

 

もう無理だ! と思うような困難なことが起きても、不思議と、まわりから手がさしのべられ、問題が解決していくことの不思議、人とのご縁が本当にありがたいと感謝していることを話してくれた。

 

父の認知症発症の経緯と、鑑別診断の予約を取ったことを伝えると、病院の名前を聴いたOさんの表情が少し曇った。気になって、理由を訊いたところ、たまたま、仕事で接する機会があったその病院のスタッフの対応に、いい印象がないのだという。でも、そのときだけのことかもしれないし、気にしないでねと言われた。

 

気にしないでねと言われても、やはり気になる。

 

大きな病院だから、職員の数も多い。患者の数も多い。受けとる角度によって、一長一短があるのは、当然のことだ

ましてや、認知症の鑑別診断や、治療において批判的なことを言われたのではなく、まったく関わりのない病棟の印象だったかもしれないのに、Oさんの言葉は、棘のようにずっと残っていた。

 

(情報をもっと集めよう)

 

介護・福祉関係の職業……と考え、思いだしたのは、高校三年の長男が小学六年生のとき、PTAの本部役員を一緒にしたメンバーの一人、Uさんだ。Uさんは、副会長だった。

 

PTAの本部役員というのは、学校や地域の任務が多く、毎月開催される委員会の準備をし、行事前には夜遅くまで作業を共にするので、特殊な連帯感があり、任期が終わってからも暑気払いや忘年会などと称して、みんなで集まって懇親会を重ねていた。

 

Uさんは、母が骨髄の病気を発病するまで参加していた手話サークルに所属していて、母とも仲がよかった。明るく、面倒見がよく、心の美しさがにじみ出ているような人で、信頼できる人だと感じていた。個人的なことを話したことはなかったが、ちょうど少し前に、Uさんからアドレスが変わったことを知らせるメールが届いていたことに勇気をもらい、藁をもつかむ思いで、連絡してみた。

 

すると、「自分は身体に障碍がある人の介護をする仕事なので、認知症のことは詳しくないが、知り合いにきいてあげる」と返信があり、その日のうちに、近くの診療所が併設するデイサービスの相談員 Kさんを紹介してくれた。

その診療所は、「認知症の治療が受けられる病院」で検索した中にも入っている、自宅からも両親の家からも、一番近い場所だった。

 

「Kさんは、いつでも電話してもらっていいとのことです」と書かれていたが、すぐには連絡できず、しばらく、そのままにしていた。

 

電話をかけることになったのは、脳外科で処方してもらった「デパス錠」が効かず、父は夜に寝ないばかりか、ついに、外来の診察に出かけようとする母を行かせなかったという報告を受けたからだ。

 

なぜか父には「母が不倫をしている」という、はっきりとした妄想があり、母が出かけるのは別の男性に会うためだという思いにとらわれると、歯止めが効かなくなるらしい。

その日、母が通院のための準備をしていると、いきなりスイッチが入って怒り狂い、どうにも手がつけられなくなり、母は病院に行くのをやめたというのだ。

父はスイッチが切れると、平常に戻るらしいが、母の治療ができない状態は困る。母が夜、眠れないことも問題だ。死活問題だ。

 

介護申請はしたが、市役所から連絡があるのは、しばらく先。

鑑別診断の予約もまだ先だ。

脳外科で処方してもらった薬を飲んでも、父の異常な行動はおさまらない。

おさまらないばかりか、ひどくなっている。

 

(どうしたらいいのだろう?)

 

そこで、Uさんが紹介してくれた診療所に電話をかけ、相談員のKさんにつないでもらったところ、すぐに面談の運びとなった。

平成29年7月7日(金)だった。

地域包括センターを訪れてから一週間後のことだ。

 

〈みみ〉

 

地域包括センター

どうやら、父は昼夜の区別なく、スイッチが入ると異常な行動を起こし、不倫妄想や、もの盗られ妄想にかられ、暴言、暴力行為に及ぶらしい。

母から聞くその様子は、あまりにも常軌を逸していて、認知症というよりは、精神病ではないのかと思うほどで、どうしたらいいのかわからなかった。

 とにかく、認知症の診断のできる病院を受診することと、介護認定の手続きをしなければならないと思い、市のホームページを閲覧し、申請用紙をダウンロードしたが、

 

(難しい!)

(なんだこれ。どう書いていいのかよくわからない!)

 

介護保険課に問い合わせると、居住地の管轄の地域包括センターが窓口となっていることを知らされ、さっそく、両親の住む地域のセンターを調べ、電話をかけた上で、訪問することになった。

 

何もわからず訪れたのだが、第一印象は、「あたたかい」ということ。

とても親身になってくれ、話を聴いてくれる。

悪鬼のようになった父に憎悪さえ抱いている私を、責めないばかりか、やさしくねぎらい、いたわってくれていることが伝わってきて、話をしていても、包み込まれているようなのだ。

マニュアルがあるのだろうと思いながらも、その対応に感銘を受け、癒された。

 

父は認知症ではなく、精神病ではないのか? という私の疑問に対しても、市で作成したわかりやすいガイドブックを広げ、認知症によく見られる症状であることを説明してくれた。

別人のように凶暴になり、錯乱する父は、もはや父とは思えず、なんの罪悪感もなく、薬で鎮静させるしかないと短絡的に思いこんでいた私に対しても、あくまでおだやかに、

「そうなんです。でも、薬で抑えてしまうと、おとなしくはなりますが、今度は、何もできなくなってしまうんです。身の回りのこともできなくなります。いったんそこまで落ちると、もう二度と元には戻らないのです。すると、今度は身辺介護に手がかかるようになります。だから、興奮と暴力が抑えられ、身の回りの自立が保てるという、そのちょうどいいバランスのところでお薬を処方しないといけないのですが、人によって効き方が違うので、難しいのです」

と、諭すように話してくれ、おかげで目が覚めた。

父の暴挙を防ぎたいと思うあまり、安易に薬でおとなしくすればいいと考えたが、それは父を廃人にするのと同じことだったのだ。

 

(…………)

 

つづいて、地域包括センターの担当者が伝えてくれたことも、とてもわかりやすかった。

 

父の認知症の進行を少しでも遅らせるためには、病気の母とだけの生活では、会話も少なく不十分なので、脳に刺激を与えるために、リハビリ的な訓練が必要なこと。

母の心身の休息のために、父と離れる時間が必要なこと。

それが可能なデイサービスを受けるためには、介護認定を受ける必要があること。

 

驚いたことに、地域包括センターでは、介護申請の代行をしてくれるのだという。

申請書をどのように書くのかに頭を悩ませなくても、この場で一緒に作成してくれる!

私が仕事を休んで市役所に行かなくても、変わりに申請してくれる!

 

なんというサービス!

 

市役所に電話をしたとき、地域包括センターが窓口だと言われ、たらいまわしにされたように感じて、内心、ムっとしたのだが、至れり尽くせりのシステムだとわかった。

何もわからない市民がいきなり申請しようとしても、役所の書式はわかりにくい。

窓口が一つでは、全域からの市民の問い合わせに、とても対処しきれない。

市を複数の地域に分け、それぞれに窓口を置くことで、市民も気軽に足を運べるし、職員も細やかな対応ができる。

このように、職員が状況を聞き取り、必要な申請を見極め、書類の記入に立ち会うことで、不備や差し戻しがなくなり、結果的に審査までの時間を短縮できる。

 

すごいシステムだと感銘を受けた。

 

難点は、行政という立場であること。

次の大きな課題である認知症の治療について、いったいどの病院がいいのかを聞いてみたのだが、行政の立場では話すことができないと言われ、それはそうだと納得した。

情報はあるはずなのに、教えてもらえないのだ。

 

口コミが欲しい!

情報が欲しい!

 

地域包括センターを訪れたのは、平成29年6月30日(金)の夕刻。

週明けに介護申請をするので、それから二、三週間で、面談だそうだ。

 

〈みみ〉

 

薬が効かない

 

認知症の進行を遅らせることができると言われている薬」を脳外科で処方してもらい、一息ついたような気がしていたが、実際はそうではなかったらしい。

「らしい」というのは、私は両親とは離れて暮らしていたので、認知症の発症に伴う父の変化を言語化できるのは母だけなのだが、母には、薬を飲むようになってからの父の変化を、客観的に伝える力がなかったのだ。

 

「お父さんどう?」

「まあまあやな」

「まあまあって?」

「いいときもあるし、悪いときもあるし」

「二週間、半分の量で様子を見て、何もなかったら通常の量に増やすって言ってたから、先生に様子を伝えなあかんねんけど。ひどくはなってないの?」

「うん。そうかな」

「じゃあ、薬の量、増やしてもいいの?」

「うん。そうやな」

 

このような感じだったので、なんとなく父の異常行動はおさまっているのかと思っていたのだが、そうではなかった。

母は父の専制君主的な言動に慣れていたので、常軌を逸しているのかいないのかの判断がマヒしていたのだ。

 

私はそのことに気づかなかったので、母の「まあまあ」を肯定的に判断した。

二週間後、ドネペジルは倍量の10㎎になった。

 

修羅場だった。

 

翌日から毎日、母から電話が入り、父の昼夜逆転・もの取られ妄想・不倫妄想・暴言・暴力に、自分はどう奮闘したかを延々と聞かされた。

私が実家に行っても、そのときには父は普通なので、対処ができない。

嵐が過ぎたあとの父は、全てを忘れ、穏やかになり、母をねぎらい、たたえ、母がいないとダメだといい、甘えるそうだ。

ところが、夜中に起き出した父は豹変し、探し物を母に命じ、見つかるまで眠らせないらしい。

なんということだろう。

このままでは、母の心身の健康が危ぶまれる。母が参ってしまう。なんらかの措置をとらなくては。

 

(そもそも、これは認知症なのだろうか?)

(精神病ではないのか?)

向精神薬などを処方してもらったほうがいいのではないのか?)

 

そこで、私ひとりで脳外科に行き、症状をこんこんと伝え、興奮を鎮めるような薬か、夜中に眠れる薬を出してほしいと申し出た。

すると、その脳外科では、脳外科的な疾患が原因で認知症状が出ている人の治療のために、認知症の薬を出しているが、それ以外の認知症は扱っておらず、認知症薬と向精神薬とのバランスを考えながら処方していくという治療はできないので、紹介状を書くから専門的な病院で診断を受けてほしいと言われた。

 

(えーーーーーーーーっ)

 

専門的な病院って、どこですか? と尋ねると、こちらには情報がないので、どこでも書きます、言ってくださいと言われ、教えてほしいのは私のほうだと思いつつ、それよりも何よりも、今晩、父が寝てくれなかったら母の身体がもたないのです! と懇願し、本人がいないと薬は出せないと言われたのを、半ば泣き落としに近い状況で、出してもらったのが「デパス錠」という薬。

これで夜は寝てもらえる! と思ったのだが、

 

(まったく効かなかった)

 

魔法の薬であるかのように重々しく、母に渡したのだが、翌朝、「ぜんぜん、効かない」と恨み節のような声で母から電話がかかってきた。

 

(どうすればいいの?)

 

父と母を離さなければ! 

デイサービスを受けるためにはどうすればいいの?

介護認定を受けるためにはどうすればいいの?

 

ここから、市役所に電話をして、地域包括センターを訪問し、介護申請をし、面談を受け、デイサービスを受けられるようになるまで、夢中だった。あっというまだった。

本当に切羽つまったら、四の五の言わず、なんでもできるのだと思った。

 

〈みみ〉

最初の検査

もの忘れ的な症状は、もっと前から始まっていたのだと思う。

だけど、八十歳を過ぎ、会社に行くわけでも、責任のあることを任されているわけでもない父と、亭主関白な夫にずっと仕えてきた闘病中の母にとって、少しくらいやりとりにとんちんかんなことがあっても、不都合などなかったのだろう。

 

「年のせい」「機嫌が悪い」「病気で迷惑をかけている」

 

そんな言葉で、なかったことにできるくらいの小さなほころびが、気づいたときには修復できないくらい大きな穴になっていたとしても、母を責めることはできない。

4月に転勤したばかりで、新しい仕事に追われていた私は残業が続いていて、母からの電話は、ただうっとおしく、夫婦げんかの話など娘にしないでほしいと思っていたのだ。

 

「これはおかしい」と思ったのは、母が骨髄の病気であることを、どうやら父が忘れているとしか思えない言動が増えてきたからだった。

母は抗癌剤の投与のために、二か月に一度、入院するのだが、母の不在イコール不倫という妄想に父は支配されているようなのだ。

しかも、不倫の相手は、近所の電気店のご主人で、そのことを執拗に責めるのだという。

驚いた母が否定すると、卑猥かつ執拗な言葉で母を傷つけ、最後は手が出る。

また、通帳がない、財布がない、鍵がない、書類がない、など、夜中に起きだして騒ぎだし、母が隠したの一点張りで、朝まで母に探させる。

父と母しかいない家で、盗った盗られるなどありえないのに、父は、どういう衝動にかられているのか、あらゆるものを隠そうとし、隠した場所を忘れて、騒ぎ出すのだという。

または、「みんながわしをバカにする」と、卑屈になり、いきなり「離婚しよう」とか「田舎に帰る」などと言いはじめることの繰り返しなのだそうだ。

しかし、嵐が去ると、父は全てを忘れていて、母に媚びを売る。甘える。ふれてほしいとねだる。小学生の子どものような退行。

 

ドメスティックバイオレンス? 認知症?)

 

どうやら、父に何かが起こっていることはわかったが、精神の病気なのか、認知症なのか、よくわからない。

母から父の異変を聞いた千葉に住む妹からも、心配してメールが届く。

実家に様子を見に行くが、私や孫たちの前では、いつもどおりの父なので、母が言うような事態が起きていることが信じられない。

そもそも、これは本当のことなのか?

 

(もしかしてボケているのは、母?)

 

母が認知症なのか?

 

妹と私から、認知症の疑いをかけられた母が取った行動は、父が錯乱しているときのやりとりを実況中継するというものだった。

夜中にいきなり電話がかかってきて、受話器を耳にあてると、母の金切り声と父の怒号が聴こえてくる。

通話状態のまま、放置された子機が、父と母のやりとりを拾いつづける。

耳をふさぎたいような罵倒。ヤクザ映画に出てくるちんぴらのような言葉づかい。どうしたらそんな言葉を思いつくのかと驚くほどの卑猥で陰湿な言葉を、執拗に繰り返しているのは、確かに父の声だが、これまでに聞いたことのないトーンで、何か別の人格、または邪悪なものが憑依したかのように不穏なのに、下手な役者が演じる陳腐な再現ドラマのように現実味がなかった。

これは父ではない! と叫ぶと同時に、父だ、と醒めている部分もあった。

 

湧いてきたのは猛烈な怒りだ。

父を支配している邪悪なものに対して。

母にそんなことをしている父に対して。

こんなものを娘に聞かせる母に対して。

 

とにかく、早急に父が認知症なのかどうかを診断してもらい、症状を止める薬を処方してもらわなければという決意が固まった。

 

どこで?

 

今考えると、不思議なのだが、父に対しては「認知症」という言葉を使ってはいけないという思い込みがあった。

「もの忘れ外来」などという名目では、病院に連れていけないような気がしてしまったのだ。

そこで、以前に父がMRI検査をした脳外科であれば、抵抗が薄いと考えた。

もう一度MRI検査をしてもらい、一年前の脳の状態と比較してもらうことで、認知症の進行がわかるのではないかと思ったのだ。

 

父を連れ出し、脳外科を受診したのが、平成29年6月3日。

 

MRI検査の結果が出て、診察室に呼ばれ、先生から聴いた言葉は、

「一年前と、変わってませんね」

 

それだけだった。

 

(え)

 

先生の口からは、「認知症」という言葉も、薬の処方も出てこない。

 

(このまま帰れって?)

 

いやいやいや。このままでは帰れない。

もう診察は終わりとばかりに背を向けかけた先生に、必死で父の状況を話し、認知症ではないかという思いで来たということを伝えた。

そこで初めて、「では、検査をしましょう」ということになり、すぐに長谷川式の検査が始まった。先生の机には、検査のシートが常備されていたのだ。

いくつかの質問に答えていく父。

ふざけているのか、本当にわからないのか、ニコニコしながら間違えた答えを即答する父は、ちゃらけた小学生みたいだった。

少し前まで、畑を借りて野菜を作っていたので、野菜の名前は楽勝だろうと思ったら、4つほどしか言えない姿を目の当たりにして、初めて絶望的な気持ちになった。

結果は16点だった。

 

予備知識がなかった私は、16点がどういう数字なのかわからない。

 

「30点満点で、20点以下が認知症の疑いがあると言われています。進行を遅らせることができると言われているお薬がありますので、飲んでみますか?」

「はい!」

 

20点がラインで、16点しかないというのは、かなりショックな数字だった。

それよりも、最初に言われた「一年前と変わっていない」という先生の言葉がひっかかる。

 

では、一年前から父は認知症だったのか?

なぜ、教えてくれなかったのか?

思わず、先生に詰め寄ると、

 

「画像から認知症であるかどうかという診断はできません。脳が萎縮していても、認知症の症状が出ていない人もいるし、萎縮がなくても、認知症の症状が出ている人もいます。ご本人から申し出がなければ、こちらから認知症の薬を出したりすることはありません」

 

と、淡々と言われた。正論だ。

 

認知症の進行を止めるという薬は、ドネペジルというものだった。様子を見るために半量の5㎎を二週間続け、副作用などがなければ、通常の量にするという。

市に問い合わせて、介護認定の申請をして、いろいろなサービスを受ける手続きをするようにと言われた。

 

やはり……という思いと、16点という少ない点数が、ぐるぐるまわる。

その日から、薬を飲んで様子を見ることになった。

父は、私に対しては、暴言も暴力もなく、おとなしいものである。

抵抗もなく、診察を受けてくれた。

ただ、イコカのケースを入れた場所をすぐに忘れ、電車の乗り換えのたびにカバンをひっくりかえす大騒ぎになることに驚いた。いったいいつから、父は、こんなふうだったのだろう?

何度も、「どこへしまったかな」と私に確認する。いったん入れても、不安なのか何度も出し入れするので、父がどこに入れるか見ていないと、私にも探せなくなる。

 

父が認知症だとわかった日。

脳外科を出たところに、小さなアジサイ園があり、花がつきはじめていた。

私は認知症のことを何も知らなかった。

薬を飲めば、父の異常行動は軽減し、平和な日々が戻ると思っていた。

 

 

〈みみ〉 

実家に単身赴任

 

夫と二人の子どもたちと離れ、実家でお雑煮を作り、両親と食べる元旦。

マンションで、朝の光が差し込む南東向きのリビングで迎えるお正月と違い、築四十年の日本家屋の北側の台所は暗くて寒い。

81歳の父と78歳の母に年越しそばを作り、紅白歌合戦を見ながら、一緒に食べ、朝がくると、あたたかいお雑煮を作って、「あけましておめでとう」と挨拶するなんて、父が認知症にならなければ実現しなかった。

ほかの病気であれば、病床に付き添うことしかできなくなってから介護が始まる。こんなふうに、会話もでき、おいしいものをおいしいと言って食べてくれるうちに、親孝行ができる状況は、神様がくれたプレゼントなのかもしれないと、思うこともある。

 

父が認知症だとはっきりわかったのは、平成29年の6月だ。

後から思えば、「このときにこうしていれば」「このときに気づいていれば」「あれは、そういう意味だったのか」と、思い当たる節目が、たくさんある。

でも、無知だった。

認知症」イコール「どなたさんですか?」と、配偶者や子供のことも忘れてしまうというイメージしか持っていなかった。

 

「どなたさんですか?」の状態になるまでには、長い長い道のりがあり、それよりも困った状況がたくさんあるということを知らなかった。

いちばんショックだったのは、はっきり「認知症」だとわかってから、薬を飲んでも、もう遅いということだった。

発症するまでの潜伏期間が、十年とも二十年とも言われているなんて、デイサービスの相談員さんから聞くまで、知らなかった。

脳が「萎縮する」ということは知っていたが、「血流が悪くなる」ということも同義だったなんて、本を読むまで知らなかった。

しかも、本人からの申し出がなければ、病院の先生は「認知症かもしれないので、詳しい検査を」などとは、絶対に言わないものだということも。

 

(言ってくれよーーーーーっ)

 

父の場合は、高血圧の持病があり、ずっと近所の内科にかかっていたが、頭痛やふらつきを訴えたため、脳外科を紹介してもらい、MRI検査を受けた。それが、平成28年の5月だった。

このころ、すでに父の言動でおかしなことがあり、「それは認知症では?」と疑いを持っていた私は、MRIの画像から、認知症かどうか判断でき、何かあれば伝えてもらえるはずだと楽観していた。

検査の結果は、脳梗塞や腫瘍などはなく、「血流が悪いところがある」という所見で、認知症のことは何も言われなかったと母から聞き、安心してしまった。

同じころ、免許の更新前の高齢者講習と認知機能検査があり、父は合格と聞き、さらに安心してしまった。

不安の先送りだ。

このころ、父は既に認知症を発症していたのだと思う。

80歳を越えたら、どんな病気であっても付き添い、医師の話を聞き、必要があれば、疑問や質問を投げかけなければならなかった。

ましてや、認知症を疑う言動があったのだから、医師に状況を話し、この時点で認知症の検査をしなければいけなかった。

運転免許の更新前の認知機能検査も、合格したことを聞いて安心するのではなく、検査結果通知書で内容を確認しなければいけなかった。

一年後、介護のために同居するようになってから、ぐうぜん見つけた通知は、愕然とするものだった。

 

まず、認知機能検査結果は、69点で、「記憶力・判断力が少し低くなっています」という判定だった。76点以上なら、「記憶力・判断力に心配ありません」ということなので、合格したから安心というレベルではなかった。

しかも、教習所で行う認知機能検査は、認知症の診断を行うものではないので、「49点未満だったとしても、直ちに認知症であることを示すものではなく、49点以上でも必ずしも認知症でないことを示すものではない」と書かれている。

さらに、「記憶力・判断力が低くなっている」とされても、運転免許証の更新をすることはできるし、直ちに運転免許が取り消されるわけではない」と書いてある。

 

(えええっ 危ないやんーーーっ!!)

 

どういうときに取り消されるかというと、49点以下の人が、一定の期間に、交通違反をした場合、公安委員会から連絡があり、専門医の診断を受け、認知症と診断された場合だそうだ。

 

(待って待って)

 

ということは、更新前講習に合格し、運転免許の更新ができたことは、父が「認知症ではない」ことを、なんら証明していないということだ。

 

(知らなかった)

 

後の祭りのことだらけ。

両親が75歳を超えたら、いくら元気であっても、こまめに様子を見に行き、病院には必ず付き添わなければだめだった。

 

しかし、父は、以前からとぼけたことを言う人だったし、気性も激しく、短気で、人の言うことをきかなかったので、認知症なのか性格なのか、母も私も、判断がつかなかった。

特に、孫が生まれてからは、かつてのキレやすく、自己中心的な性格が変わり、気長に待つことも、人とのコミュニケーションもとれるようになっていたので、内心、驚いていた。この性格の変化こそが脳内の変化の発端だとしたら、皮肉なことだと思う。

いったい、父の脳は、いつから変わり始めていたのだろう。

 

認知症を発症し、薬を飲みだしてからの父しか見ていないので、父が自分の脳で起きていることに気づいたころ、どんな葛藤があり、どう対処していこうとしたのか、伺うことができない。

古い手帳を何冊も持っていて、今もデイサービスに持っていくカバンの中に入れているので、大切なことは書き留めておこうとしていたのかもしれない。

 

母は、六年前に骨髄異形成症候群という血液の病気になった。

高齢で、骨髄移植はできず、薬の効果も二~三年。五年以上の生存率は少ないと聞かされていた。

父が母の介護をし、看取るはずだったのだ。

父は、定年後、ホームヘルパー2級の講習を受けている。シルバー人材センターで幾つかの仕事をしたあと、デイサービスの送迎の仕事を紹介され、認知症サポーターの講習も受けていた。

だから、今も、デイサービスは職場だと思っている。

利用者を見守る仕事だと、私に報告してくれる。

 

父は、母が病気であること、弱っていくことが受け入れられなくて、現実を見たくなくて、認知症に逃避したのだと思う。

 

私も、老いて弱っていく両親の姿から逃避していたと思う。

常勤で仕事をしているし、高校3年生の長男と、中学3年生の長女と離れて、利便性のよい快適なマンションから、不便で寒くて暗い、築四十年の実家に移り住むなんて、ありえないと思っていた。

 

ところが、母の緊急入院。

待ったなしだった。

父は一人では、鍵の管理も、財布の管理もできず、薬も飲めない。時間も曜日もわからない。

鉄拳を振るわれるって、こういうことなのだと思った。

あれこれ考えるまでもなく、それしかない状況がやってくる。

こうして、母が入院したその夜から、私ひとりが実家に移り住むことになり、認知症の父との生活が始まった。

平成29年8月28日。

 

〈みみ〉

がんばるのは今じゃない

 「がんばるのは今じゃない」

 

施設相談員のKさんに言われて、ずっと張りつめていたことがわかった。

力みが抜けていく。

 

「がんばるのは今じゃない。これから、もっともっと大変になるの。お父さん、身体がお元気だから。先は長いよ。十年! もっとかも」

 

(がんばるのは“今“じゃない)

 

十年も張りつめたままじゃいられない。

父は、まだ、自分で着替えもできる。ごはんも食べられる。歯も磨く。ひげもそる。おふろも入る。トイレも行ける。

今、すでにいっぱいいっぱいになっていたら、この先、もっと介護が必要になった時、どうなるのだろう。

今はまだ、私は私のことをしていいのかも。

私は、自分の子供たちのことを考えていいのかも。

 

「がんばるのは今じゃない」

 

それは、「寿ぎ」のようで。

「呪い」のようで。

 

長い長い……

 

〈みみ〉